詩篇57篇

指揮者のために。「滅ぼすな」の調べで。ダビデによる。ミクタム。ダビデがサウルから逃れて洞窟にいたときに。

 元になる調べは、「滅ぼすな」で、この詩の主題と関係しています。サウロがダビデを滅ぼそうとしていたのです。

57:1 私をあわれんでください。神よ。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。私は滅びが過ぎ去るまで御翼の陰に身を避けます。

 彼は、二度「あわれんでください」と求めています。その求めは、「神」に対する求めです。それは、支配者であり主権者である神の契約と真理に基づくものです。その神の栄光のために求めているのです。

 後半には、その理由が示されています。「私のたましいは、あなたに身を避けていますから。」と。たましいは、信仰による歩みをする部分です。主を求め、信頼して主に身を委ねる者に対して、主が喜んで答えてくださることは、契約によることです。

 彼は、滅びないと信頼していました。主が御翼の影にかくまってくださると信じていたのです。

・「あわれむ」→(主が)求めに対し喜んで答えること。このことは、御言葉に根拠がある、契約の条項です。

下記参照

詩篇

指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバと通じた後、預言者ナタンが彼のもとに来たときに。

51:1 神よ私をあわれんでください。あなたの恵みにしたがって。私の背きをぬぐい去ってください。あなたの豊かなあわれみによって。

→「あわれむ」は、「恵み」に従ってなされること。すなわち、契約の履行という応答の中で示される神様の行為で、求めることに対して応答すること。

 恵みは、契約に対する忠誠。深いあわれみは、深い同情。

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57:2 私はいと高き方神を呼び求めます。私のためにすべてを成し遂げてくださる神を。

57:3 神は天から助けを送って私を救い私を踏みつける者どもを辱められます。セラ神は恵みとまことを送ってくださいます。

 彼が、「神」を呼び求めている理由が示されています。いと高き方である神を認識して呼び求めていることが分かります。支配者であり主権者です。

 その方は、彼のためにすべてを成し遂げることができる方です。この言い表しには、神が信仰に答え、彼のために事をなさる方であること、また、全てを成し遂げることができる力があることが示されています。

 そして、それは、天から送られる助けです。この地のものが及びもつかない、この世とは分離して、天の判断による業であるのです。そのような立場から、彼を踏みつける者どもを「辱められる」のです。「辱める」は、意訳です。この語は、詩篇56篇で、敵がダビデに対して示した行動に当てはめられています。原意は、あえぐや熱望するという意味です。「神が攻撃の対象として熱望しているのです。餌食として求めること」を表しています。

 神が送る助けは、「恵みと真」です。「恵み」は、契約に対する忠誠です。真は、真実です。それは、契約を果たされる誠実さの程度について示しています。契約は、御言葉によって示されています。そして、それを果たされるのは、契約に対する忠誠をもって果たされるのです。

57:4 私のたましいは獅子たちの間で人の子らを貪り食う者の間で横たわっています。彼らの歯は槍と矢彼らの舌は鋭い剣です。

 神が「攻撃の対象として熱望している」ことと、敵がダビデに同様にしていることが取り上げられています。彼は、獅子の間に横たわっているかのようでした。槍と鋭い剣で彼を狙って、貪り食らおうとしているのです。

 神は、彼らがしていることにふさわしいものを返されます。

57:5 神よあなたが天であなたの栄光が全世界であがめられますように。

 それで、彼は、神が天で、また、全世界で崇められるようにと祈りました。

57:6 彼らは私の足を狙って網を仕掛けました。私のたましいはうなだれています。彼らは私の前に穴を掘り自分でその中に落ちました。セラ

 彼らは、足を狙って網を仕掛けました。自分のたましいは、ひれ伏しています。これは、主の前に謙り、主を求める姿です。文脈としては、敵の攻撃がありましたが、彼は、守られ、揺るぐことがありません。そして、主を賛美しています。そのような流れの中で、たましいが弱ったかのように「うなだれる」というのは、整合しません。

 彼らは、足を狙って網を仕掛けました。なぜ足なのでしょうか。それは、後半の「たましい」の躓きを求めることであるからです。「足」は、信仰の歩みを表しています。彼らがその信仰の歩みを攻撃したのです。それは、たましいに対する攻撃です。

 また、私の前に穴を掘ったことは、やはり、歩みを止めるためです。もはや歩んで行けないようにするためです。これも、たましいに対する攻撃なのです。実際の攻撃は、彼を捕らえ殺すことです。しかし、ダビデが問題にしていたのは、たましいの歩みなのです。敵の攻撃が彼にもたらすものは、たましいの歩みを躓かせることです。

 敵は、穴を掘るかのごとく彼を躓かせようとします。しかし、彼ら自身は、その中に落ちるように、自ら躓くのです。彼らのしていることは、信仰者を攻撃することです。そのような悪によって、彼ら自身は躓くのです。それは、神様がそのような悪に対して報いられるからです。

57:7 神よ私の心は揺るぎません。私の心は揺るぎません。私は歌いほめ歌います。

 そのような中でも、彼の心は揺らぎませんでした。たましいと対比されている心は、御言葉を受け入れる部分です。彼のたましいが一時的に停滞したとしても、彼が御言葉を信じ続けることは何ら揺るいでいないのです。彼は、歌い、褒め歌うことができました。

57:8 私のたましいよ目を覚ませ。琴よ竪琴よ目を覚ませ。私は暁を呼び覚まそう。

 そして、彼は、たましいに目を覚ますように言いました。自分を鼓舞したのです。再び信仰によって歩みを再開するように、自分自身に言い聞かせているのです。琴と竪琴は、神に対する強い賛美の時に用いる楽器です。歩みの停滞ではなく、信じて従うことで、そこに神の栄光を見て、強く賛美しようと言い表しています。暁を呼び覚ますというのは、そのことで、この闇の中で神の栄光の現れを指しています。彼が、信じて従う所にその栄光が現されるのです。

57:9 主よ私は国々の民の間であなたに感謝しもろもろの国民の間であなたをほめ歌います。

 彼は、国々の民の間であなたに感謝し、褒め歌を歌うと言いました。暁としての神の栄光を見て、世界中でそれを褒め歌うのです。

57:10 あなたの恵みは大きく天にまで及びあなたのまことは雲にまで及ぶからです。

 その理由が示されています。なぜならば、あなたの恵みすなわち、契約を忠誠をもって果たされることは、天にまで及ぶのです。それは、忠誠の程度を表していて、人のようないい加減さではなく、及びもつかない高さを表していて、徹底的に忠誠をもって契約を果たされることを表現しています。なお、「大きく」は、原語にはなく、補足です。

 真は、真理です。真実とも訳されますが、ここでは、神が契約を果たされる程度について示していて、嘘偽りがないことがこのように表現されています。

57:11 神よあなたが天であなたの栄光が全地であがめられますように。

 このように契約を果たされる神が天で崇められ、全地で崇められますように祈りました。これが神の栄光です。